ずログ(仮)

近況報告と発声練習

社会に入れない人

正直言って、私は一社会人として生きていくうえで、非常に不器用なタイプである。

社会向けにお行儀よくしようと自分の中で頑張っていると、傍から見ると何もとっかかりのない、わかりやすくいうと根暗なコミュ障になってしまうのである(まあ、普段からそういう人間なのはそうなんですけどね、、)。いつも明るくハキハキと、何気ない世間話をスムーズにこなし、周りを巻き込んで主体的に動く、初対面の人とも仲良くなる、そういう社会的に正しいことが、昔からどうしてもうまくこなせなかった。社会の場で初めて会った大人にはだいたい、「○○(本名)さんはマイペースな人だよね」という感想を貰ってきた。言うまでもない、「マイペース」は「社会不適合」を社会性フィルターに通した結果出てきた表現である。

 

愚痴はさておき、、そんな私が勇気づけられ、色々考えさせられ、久々に書きたいことがするする思い浮かんだ本があったので紹介します。

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従来いわれてきた貧困は単にお金の問題だけで、当面生きてはいけるだけの生活保護を与え、自分でお金を稼ぐための就労支援をすることが貧困対策だった。けど、そんな「死んではいないだけ」の生活をさせることは本当に支援といえるのか。人間が生きるうえで何よりも必要なのは心の豊かさである。そして、生きるうえでの心の豊かさを与えてくれるのは人とのつながり、言葉を変えて言えば「居場所」「承認」である。

居場所・承認はやはり、社会的にまともでないと、つまり労働をして自分でお金を稼げないと得ることは難しい。しかし、社会で働いてやっていくことにどうしても馴染めない、さまざまな生きづらさを抱えた人がいる。彼らは、「社会で生きていく価値の無い人」として切り捨てられても仕方ない人なのだろうか?

 

障害学においては、「障害」とされる心身の状況を抱えていることが障害なのではなく、そのような心身の状況にある人々が自由に活動できないような障壁を社会が内蔵していることこそが障害なのだという。そのように、「生きづらさ」がダメなのではなく、彼らも彼らの人生を良く生きることができる社会というのは、実現しないものなのだろうか。

 

著者は、ボランティア活動をしていた際に出会った路上生活者「かっちゃん」のエピソードを紹介する。彼は言ってしまえば素行が悪く、通行人にいきなり突っかかったり、その地域のNPOがやっていた、野宿者が自主的に集まって公園を掃除する活動に決まって現れては、1人寝そべって掃除中の仲間に野次をとばしたりしていた。だが、野宿者になったばかりの新参者を見て自分の小屋で寝かせたり弁当をあげたりするような面もあったためか、路上の仲間は彼がいくら協調性がなくても、なんとなく受け入れている雰囲気があったという(穿った見方をすれば捨て猫ヤンキー理論だろ、とも言えるかもしれないがそれはそれである)。つまり路上は社会から排除された彼にとって唯一の居場所だったのである。以下、引用を見た方が伝わるところが多いと思うので一部引用する。

彼が、コンビニやファーストフード店で、にこやかに「いらっしゃいませ」と言っているところは想像ができないし、スーツを着てパソコンに向かうようなこともしなかったであろう。

しかし、彼のよさや人間としての価値は、そのような物差しでしか測ることができないのであろうか。市場で求められる職業訓練を彼に求めることは、彼が彼であることを否定し、社会が考える「理想の労働者」によりマッチした、彼とは異なる人物であることを求めることである。かっちゃんは、労働市場においては自活できるだけの「評価」を得られなかったがゆえに、路上生活をしていた。でも、彼は腕のいい大工であったし、持ち前の器用さと力の強さがあった。

なぜ、彼は彼のままで社会に貢献することができないのであろう。いや、彼がたとえ、「労働者」として何の価値もなかったとしても、なぜ、彼は彼のままであってはいけないのだろう。なぜ、職業訓練をして、お行儀のよい社会人にならなくてはならないのであろう。

そんなの精神的な理想論じゃん、みんな社会でやっていくために我慢してるんだよ、社会に適合するために努力できないお前が悪いんじゃないの?というのも、確かにあまりにも正論である。私はそれに対して「ロジカルに」反論することはできない。そう言い切れるって逆にすごいな、そんなにお前は”普通”から転落しない自信があるのか、、と思う。それぐらいのメンタルの強さがあればどんなにか生きやすかったことだろう(そんな人になりたくないけど)。

 

この本の初めの方の章で、日本の貧困にまつわるデータを概説しているのだが、様々な品目を挙げて「最低限の生活」には何が必要だと思うか、という問いに対して、日本人は全般にわたり、「これが必需品である」と答えた率が低かったという。衝撃なのが、子供の必需品に対する回答である。誕生日のお祝いについて、イギリスでは93%が必需品と答えたのに対して、日本は35.8%だったという。

ちなみに日本でも、自分の子供に誕生日のお祝いをあげている割合は95%である。自分の子どもにはほぼ100%与えているものでも、日本に住むほかの子がそれを欠いていても「いたしかたない」と考えるのである。

著者の見解とは若干違うが、私はこの部分を読んで、そうか、日本人にとって心の豊かさは必需品ではなくて贅沢品なんだろうなあ、と思った。昨今言われているワークライフバランス問題とかもこの辺に端を発しているんだろうけれど。

外国人はきちんと自分が人間として生きる尊厳をきちんと権利として大事にする傾向にあるけど、日本でそれを口にすると身勝手だと思われるのはなぜなんだ?と思ったとき、鴻上尚史氏の「日本人にとっての神様は世間」という話が頭をよぎった。「村八分」の言葉に代表されるように、村落共同体社会で自分の幸せ・豊かさを求める者は排除されるべき存在だった。それに対して、特に一神教の世界では、自分の行いについては自分の内なる神に問いかければよく、自分と神との一対一の問題なので、周囲に遠慮する必要はない、ということである。*1

 

なんだか頭が発散してきたので私の言いたいことを列挙。

  • うまくやってけない側の人間でも自分の価値にちゃんと自信をもってしかるべきだし、むしろうまくやってける側の人しかうまくやってけない社会おかしくない?って伝えてくれる人がいて良かった。
  • でもそういう「社会的包摂」を実現できる術ってあるんだろうか。。
  • 日本人めんどくさい

 

*1:『孤独と不安のレッスン』に書いてあった内容。『「空気」と「世間」もちゃんと読まないとなあ