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ずログ(仮)

近況報告と発声練習

手の届かない存在に恋い焦がれる

そういうタイプに見えないのでよく驚かれるが、私はアイドルが好きだ。アイドルと対峙するファンたちの関係は絶望的なまでに非対称だ。自分のことなんて一生見ないであろう、きらびやかな世界にいるきらびやかな存在に恋い焦がれることは、ある意味、神に祈ることにも近い気がする。日頃どんなに生きる気力をもらっているかだとか、あなたがこの世にいてくれて本当に良かった、いつまでも応援しています、などそれぞれの熱意を込めたメッセージを送ることはできる。しかし、その返答が「ファン」というかたまりの一部ではない自分そのものに対して返ってくることはまずない。ライブに行けば「みんないつも応援ありがとう」と言ってくれるが、その言葉は「ファン」という総体に投げかけられたものだ。普通の感覚を持ち、自分が愛する者に愛される関係を願う人間だったらとても耐えられないかもしれないが、どうしようもなく、アイドルに生かされてしまう人間もいるのだ。
この関係って面白いなあ、これを題材になにか話が書けたりできないだろうか、なんて漠然と考えていたらまさにドンピシャの小説がすでにあって若干悔しかった。
 
 
30歳を過ぎ、6年間付き合っていたが正直あまり好きとも思えなかった彼氏と別れ、転職した直子は、転職先の年下の先輩・由佳に連れられ、生まれて初めてライブというものに行く。そこでロックバンド「ゴライアス」のボーカル・伶也に心を奪われた直子は手を尽くして伶也との接触に成功する。そして兄や知人が人生の順調なステップとして家庭を築いていくなか、直子は恋人・妻などではないよくわからない存在として伶也を支えることに人生を捧げるのである。
 
ドルヲタ的には「自分が認知されてるなら十分報われてるだろ!」と思う気持ちも無くはないのだが、まあそうしないと物語が展開しないので仕方ない。というかむしろ、めでたく認知されてしまったことが「普通」でない業の深い人生への扉になってしまっている気もする。
 
この小説は、人生における愛や幸せの成就とはいったい何事か、という答えの出ない問いを投げかけていると思う。人生における「幸せ」の成就は、多くの人にとっては結婚して子どもを持ち、家庭を築くことであろう。しかし、冷めきった主人公の家庭の姿が描かれ、他にも作中で結婚した人物が結局次々離婚しており、愛の成就の結果・幸せの象徴たる結婚は否定されている。
 
「直子おばちゃん、バイバイですよー。だいくんはこれから新しいおうちで、ばあばと一緒に住めますねえ」
 孫の大哉を抱いた母はそう言って、玄関先で直子を見送ったあと、すぐに家のなかに入ってしまった。父親は書斎に入ったきり出てこなかった。
 自分にとって家族とはなんだったのだろうか、という疑問が頭をよぎるが、寝食を与えてくれ、大学院まで出してくれた両親には感謝しかなかった。きっと自分は、母親が思い描いていたような娘ではなかったのだろう。
夫婦というのは一体なんだろうと、直子は思う。自分は結婚をしなかったし、これからもないだろう。子はかすがいというけれど、直子が両親にとってかすがいになったとはとうてい思えなかった。母の生きがいは、兄から孫の大哉に変わった。
葬儀のあと母は体調が悪いと言い、斎場には行かなかった。直子はもろくなった父の白い骨を拾いながら、急に泣けてきた。人の一生は、晩年で決まると言ったのは誰だっただろうか。父の八十一年の人生が、満足できるものだったかどうかはわからない。夫婦のことはわからない。親子のこともわからない。人の人生というのは、なんなのだろう。
 
しかしさらに地獄なのはここからである。直子は恋い焦がれる対象として、伶也に対しての欲望を持っているが、伶也と恋人関係になるわけではない。伶也に愛されることを夢想しながらも、まっすぐに自分が愛されることに対しては違和感を覚えているような、そんな資格は無いと捉えているように見受けられる。欲望は行き場を失い、屈折する。
結果的には、決して円満な最期とはいえないが、自分にとって大切な者に寄り添いながら人生を終え、死後も自分の死を悼んでくれる心の友人のような存在も複数得ている。ある意味ではこれも幸せの一形態といえるかもしれない。
 
アイドルを好きになる心理とは何か。作中でも、芸能人に対する人それぞれの向き合い方が示される。そもそも、一生出会うこともない芸能人に入れあげるなんてばかばかしいという人。憧れの芸能人と恋に落ちることを夢見たりするが、それはそれとして、自分の人生のステップを築いていく人。自分に振り向くことがない非日常的存在への狂信を突き詰めた先に何があるのかという思考実験のように読んだ1作だった。