ずログ(仮)

近況報告と発声練習

レンタルなんもしない人『<レンタルなんもしない人>というサービスをはじめます。』

全体的に読んでいてシンパシーを感じてしまったというか、実際それをサービス化する胆力の有無はおいといて私のやりたいことって「なんもしない」ことなんだなと気付かされた。

 

ツイッターの片隅でつぶやいていたら本人に捕捉されて私としては異例のいいね・RT数となってしまったが、最も心にガツンときたのはこのツイートで引用した部分だった。

 

 

会社員として給料を得ることが標準の暮らし方とされているこの国で、世の中の多数の人は一定の年齢になると就活をして「社会人」になる。

就活では、自己分析と銘打って自分のやりたい仕事やら強みやら学生時代に力を入れたことなんかを散々こねくりまわし、「私のグループにおける役割は潤滑油です!」みたいな自己PRをして、いかに企業の人事に有用な人間と思ってもらえるか苦心するわけだが(働き出したらこの手のやってしまいがちなフワっとした自己PRは大人から見るとかなり微妙ということが分かった)、社会で有用な人間になるために生まれてくる人間なんかいないはずなのに何らかの効用が求められるということ自体に、私は就活していてもどうしても違和感があった。というか今でも違和感をずっと抱えており社会からの脱出口がないかなと常に夢想している。

 

私もちょっと一時期危なかったことがある(いまもわりとヤバい)が鬱病になる場合の原因の1つとして、仕事をうまくやることができず、自分は無能で社会的に価値がない人間だという思考にハマってしまうということがあると思う。病んでしまった人間には「ありのままのあなたでいいんですよ、自分を責めないでゆっくり休んでください」という言葉が掛けられることが多い。

「ありのままの自分でいい」それは本当のことではある。でも本当にそれだけで済ませられるの?と私はこの言葉を聞くたびに思ってしまう。ありのままの私では通用しない社会がそこにあって、環境の合う合わないは多少影響するんだろうけど天才でもないかぎりその範囲内では生きていかざるをえないんじゃないの?と。「ありのままの自分でいい」と一方でいいつつ、労働市場では「好きなことや強みといっても主体的に、外部を巻き込んで価値を生み出すことでないとアピールできませんよ」と言ってるのは誰なんだ、と。その矛盾がある限り、どうしても労働と馴染めずに心を病んでしまう人間は永遠に生み出されつづけると思う。

 

読んでいてすごくわかるー!となったのが、仕事は支払われた金銭に対する対価として何か成果を期待されるからしんどい、という部分だった。というか仕事に限らず人になにかしてあげるとなったとき、最低限のクオリティを達成できないだろうという予感が常につきまとうので、主体的に人に対して何かをしてあげるのがしんどい。コミュニティの中での贈与関係がしんどいというのが完全にわかってしまった。人に何かをしてもらっても、それと同等以上のものを返せるという、自分に対する信頼感がない。

「受けたい仕事」であっても、たとえばそれが連載や類似企画なんかで何度も繰り返され、仕事の依頼主からは「この前みたいな感じで、よろしくね」などと毎回同じような成果を期待される状況に陥ると、やはり気は重く、筆も進みづらくなった。そもそも、自分にとっては誰かからなにかを期待されること、それ自体がストレスだったのだ。

僕個人としては特定のコミュニティのなかで「多めにもらってるな」という感覚を抱き続けることは、めちゃくちゃ大きなストレスになる。つまり僕にとっては不健全なのだ。というのも僕自身、なにもできないから「なんもしない」ことを始めたくらいなので、友達からなにかをしてもらったとき、どうやってお返しをしたらいいかわからなくなってしまう。しかも精神的な「貸し」は金銭のように数値化できず、貸した当人の見積見積りと、借りのある人間との予測に誤差が生じる。「恩を仇で返す」なんて古い言葉があるけれど、恩を売られたほうは、借りがあるなんて思いもよらなかった、なんてこともある。

 

それから、本当にそうだよな……と印象深かったのがこのくだりである。

赤ちゃんは有能なわけがなく、スペックはゼロ。自分はなんもしないでも、親をはじめとする周りの人たちにかわいがられ、世話をしてもらうことで生きていける。そんな赤ちゃんを見ていて「いいな」と思った。そして「世の中の人たちみんなが赤ちゃんみたいに振る舞っていても生きていけるようになればいいのに」という気持ちが芽生えたのだ。

とにかく赤ちゃんは、笑っているときはもちろん、怒っているときも、泣き喚いているときでさえかわいい。なにかをしているときも、なにもしていないときもかわいい。それでいて、赤ちゃんは別に人から「かわいい」と思われたいわけではなくて、ただ自分の好きなように、自由にやりたいことをやっている。それで世の中が回れば最高だなと。要は自分だけじゃなくて、みんなが好き勝手に生きても平気な世の中になったらいいと思っている。

まあ全員が赤ちゃんみたいに振る舞い出したらそれこそ昔に倫理の授業で習った「万人の万人に対する闘争状態」になるとは思うのだが、でもみんな自分を抑圧せずに生きられる世界になったらいいなと思う。

(関係ないかもしれないけど、日本で子どもに対する風当たりが強い原因って1つには、我々大人は自制して暮らしてるのに迷惑かけてのびのび振舞っても許される子どもが許せない、という心理がどこかしらにはあるんじゃないか?と思っている。)

名前の話

読書メーターとかオンライン歌会(最近サボってる)とか色々なものに中途半端に首を突っ込み続けているが、ネット上で名乗る名前がいまいち定まらないことにここ数年微妙に悩み続けている。

 

仙台転勤がいきなり決まったことにヤケを起こしてツイッタースクリーンネーム征夷大将軍にしたらごくごく近しい人の間でヤヤウケはしたが、しかしオフラインで読書会とかに出たときに「初めまして、征夷大将軍です」と名乗る度胸まではないので、初対面の趣味の集まりでは「zmn」または「ずみん」で通している。が、いまいち分かりにくいうえに印象の薄い名前だなと思っている。ちなみに私を昔から直接知ってる人は「ずーみん」じゃないの、と思われるだろうが、なんかこれは字面にするとなんとなくマヌケな気がしだしたのでちょっと変えた。

短歌に手を出したときに、苗字付きのカッコイイペンネームにした方が気合が入るしそれっぽいだろう、と考えたけどなんかいまいちしっくりくるものが思いつかなかった。なんかどうしても中二が考えたみたいになってしまって……結局、まあなんでもいいかなと思って最近は「ずみん」としている。

 

話は変わるが私の本名は「香澄」と書いて「かずみ」と読む。それほど捻った読みではないが、幼少期から、ほぼ初見では正しく読まれた試しがなく、「かすみさん」と呼ばれ、でもわざわざ濁点1つのために訂正するのもめんどくさい感じがするなと思ってそのまま「かすみ」のふりをすることがしばしばある。名前に対するこだわりのなさ、というかこだわれなさのルーツにはその体験が若干絡んでるんじゃないかとも思っている。

 

幼少期、母が健康診断かなにかで病院に行って、その間看護婦さん(今は看護師さんが正しいですね)のいる部屋で、当時お気に入りだったドラえもんの学習まんが(人体のしくみ的なやつだったと思う)を読みながら待っていた。その漫画には、当時誕生日プレゼントかなにかで買ってもらったシールメーカーで作った名前シールを貼っていて、それを見た看護婦さんが「かすみちゃんっていうのね」と言った。かずみなんだけどな……ともやもやしたが、今より遥かに超繊細ガラスのハートの幼児だった私は濁点1つを訂正することができなかった。

結局かすみちゃんとして1日を過ごした私は、用事が済んだあと母に「かすみって読まれた!!!!」とメチャメチャにキレ倒して泣き叫んだ。

 

月日は流れてつい先日、所属していた研究室の大御所の先生の受賞を祝う会で花束を渡す係になり、学生時代お世話になった先生に名前の読みを確認された。「名前の読み方はかすみでよかったかな」出た、いつものパターンだ…… 訂正しようか一瞬迷ったが「かずみです、まあどっちでもいいんですけど」と答えた。先生は「どっちでもよくないよ!ごめん、かずみさんだね」と言ってくれた。そうか、名前の読みってどっちでもいいもんじゃないんだな……。と気づいた自分がいた。

渡辺優「地下にうごめく星」

登場人物の誰もに愛着がわく、珍しい小説だった。

地下アイドルと運命の出会いをして勢いでプロデュースを買って出てしまうアラフォー独身会社員の夏美にはやはりある程度親近感が湧いてしまうのだが、地下アイドルの楓の章で出てくる、宝塚の受験年齢を過ぎてから宝塚にハマり、宝塚への憧れという呪いにかかり続けるという描写がわかりすぎてつらいというか、こういう状態を描いてくれている文章を初めて見た。

もういちど「うん」と答えながら、私は、祐二が誤解してくれてよかった、と思った。プロポーズされた女は喜びで泣いたりするっていう認識が世間に浸透していてよかった。
私は、ただ悲しくて泣いていた。すごく悲しい。なにがこんなに悲しいのか、自分でも、はっきりとした理由が掴めない。
ただ、私は自分の人生が、死に向かって静かに閉じていく気配を感じていた。
結婚したら、宝塚歌劇団には入れない。

兵庫県宝塚市に生まれてさえいれば、すべてが叶ったかもしれない。幼少期から宝塚を見て育って、同じく宝塚に親しんだ大人たちに見いだされて、宝塚音楽学校受験資格を得るそのときを今か今かと待ちながら、日々レッスンにいそしむ少女期を過ごせたかも。
でも私は青森県木造町に生まれ、仙台市に暮らすことだけを夢見ながら、その時期を消費した。でも、その日々は別に不幸でもなんでもなくて、ふつうに楽しく幸福だった。

 

他にも、可愛い服が似合わないおっさんになって会社員とか普通の大人になっていくことを怖れる女装少年が出てきたり、なんかグッとくる要素が多かった。

夏美の行動力は凄まじいなと思ったけど、最後の章で正直疲れると言ってて、やっぱ好きでも頑張るのってしんどいよね……わかる……となってしまった。結果はどうあれ、行動できるのはすごい。最後の終わり方は若干不安にもなったけど。。

 

あと、全く知らずに読み始めたけど偶然舞台が仙台だった。

毒親に苦しむあまり自分は使命のため地上に派遣されてきた天使であるという設定で生きることにした「天使ちゃん」というキャラが出てくるのだが、彼女は塩釜在住というのがなんかジワる。

 

 

村田沙耶香『消滅世界』

女性は産む機械おじさんとか、結婚したら子どもを3人必ず産むべきおじさんとか、そういう価値観の人がが炎上するたびに思うのだが、我々が世間体よりも自分の感覚に素直になる方がよっぽど幸せだと知ってしまった今、もはや人間の意思とか性欲のみに頼った生殖の仕組み自体に無理が来ているのでは……と感じる。じゃあそれらに頼らない生殖2.0をやってみよう!という話を読みたいなー、と思って読んでみた。

 

作品の世界では、夫婦間の性行為は近親相姦として、完全に社会的にアウトな変態行為とされている。その代わり、当然のように夫婦はそれぞれ恋人を持っていたりする。「奥さんと性行為をしたいと思う人はある意味変態だと思う」と言っていた既婚者の知人がいるが、自分の両親の性行為とか自分がそうやって生まれてきたと理屈では知ってても想像したくないし、でもそのあたりはタブーとして触れないで成り立っている世の中は、見方を変えれば正常ではないと言える。そのように、正常と狂気は世の中の定義でたやすく変わってしまうんだよ……というのが、この作品のテーマのひとつだと思った。

 

家族という単位で成り立つ世の中や、男女が愛し合って子どもを作るのがいい歳した大人の当然の義務、というような価値観をひっくり返したらどうなるのか?という純粋な興味から読んだが、最後こんな不気味な展開になっていくと思わなかった……。

 

 

 

御田寺圭『矛盾社会序説』

川崎の事件が起きてから、承認を得られない人が社会に対して復讐するというタイプの事件(この事件は結局犯人の動機は不明に終わったので、あくまで憶測に過ぎないが……)について考えずにいられなくなっている。死ぬなら一人で死ねという意見の人も一定数いるようだが、私にはどうしてもそうは思えないというか、むしろ明日は我が身みたいな部分も少しあるような気がしてしまう(まあ、今は毎日しかめ面しながらちゃんと正社員として働いているけれども……)。いちおう健全に生きてる私ですら、最近は楽しそうな中高生とか、泣いてあやされてる小さい子とか見ると、私はだんだん人生のルートが絞られてくる年齢だけどこの人たちは世界に祝福されていてまだ何にでもなれるんだよな……と思ってなんか若干嫉妬に近いような感情を覚えそうになってヤバいな、と思うことがある。

 

この本を手に取ったのも、事件をきっかけに思いをはせるようになった承認格差問題について何か書いている本を求めたからであった。この「自由」な世界は、誰からも祝福されず、見つけてもらえない誰かを見なかったことにして、踏みつけながら成り立っている。そのことを、色々な切り口から書いた本であった。

私が読んでいてなんともいたたまれない気持ちになったのは、ベーシックインカムでは真の救済はできない、という部分であった。なぜなら、カネは配れても承認を配ることはできないからだ。生活の不安が無くなっても、社会とのつながり、誰かに必要とされること、それを抜きで人間は生きていけない。

また、「承認は、すでに承認に恵まれている者の元に集まり、誰からも承認されない人はそのまま誰からも必要とされない」という指摘は、たしかにこの世界の暗黙の前提であって生きていれば誰しもそれを実体験として知っているはずのことなのだが、改めて指摘されるとハッとするものがあった。

あなたは無価値じゃない、あなたはこの社会にいていい存在だ、誰もあなたを否定しない──という考え方にはほとんどの人が首肯する。その一方で「でも自分の周囲には、ちゃんと多くの人に価値を認められた人がいてほしい」と思ってしまうのが、悲しいことだが、人間の性というものだ。 だが、大っぴらにそれをいうと角が立つので、「あなたにはきっとふさわしい場所がある」などといってお茶を濁すことが多い。

 

ちなみにこの本ではBIに伴い生じる承認格差問題に対して、「社会的結びつきの生じる活動の実績とBIを紐づけることで、BIのもつ『承認の格差拡大機能』をある程度抑制することができるはずだ」と提案しているが、この手の承認弱者にありがちな「人恋しいけど人嫌い」タイプには必ずしも有効ではないかもな、と思った。だからといって代替案は思いつかないのだが……

 

 

 

自己プロデュースと、何者でもない当たり屋の話

ゆうこすの本を読んだが、なかなか面白い。アイドルグループから脱退してどん底の状態からインフルエンサーとして復活した彼女が自身の経験から、SNSでファンを増やす方法について語っている。彼女は、自分に特別な才能があったからではなくて誰でもSNSでファンを増やせる可能性はあると語るが、これを正直に実践できる人、なかなかいないのでは……。

  

共感SNS 丸く尖る発信で仕事を創る

共感SNS 丸く尖る発信で仕事を創る

 

 

SNSで夢を叶える ニートだった私の人生を変えた発信力の育て方

SNSで夢を叶える ニートだった私の人生を変えた発信力の育て方

 

 

また、なかなか刺さる箇所があった。(以下、『共感SNS』より引用。)

まったく無名の人が街で人混みに向かって

「私は女優を目指しています!」

「私どもの会社はこういうコスメをつくっていて多くの女性を綺麗にしたいんです!」

などと、自分の夢や願望だけを話していたとしましょう。

一体、何人が振り返り、話を聞き、「応援したい!」と思うでしょうか。

街で立っているならまだしも、SNSの世界は「画面」です。

「私は女優を目指してます!」とツイートしたとして、このツイート1つで”応援”や”共感”につながることは絶対にありえません。

ではどうしたらファンを増やせるのか……という問いに対して、このあと彼女は、自分がそう願う理由や思いを端的に示す明確な自己プロデュースと、自分がターゲットとする層にニーズのある情報発信の重要性を語っていくのだが、Twitterをはじめとするネット上でこれに近い状況、けっこうあるのではないか。

 

ken-horimoto.com

私はこの記事を読んでうわー、と思うと同時に、ともすれば私の中にもこの23歳男子と似たような部分があるのではないか?と思えて背筋が寒くなった。

誰かに見つけてほしい願望を抱えた人間が、どうにかして”かけがえのない自分の個性”なるもの(そんなもん無いのだが)を見てもらいたい!!と思うあまり、こういう当たり屋みたいなことをしてしまう事象はわりとよく見る。有名人に自作の曲とか動画とかをリプライで投げてみたりとか。でも相手からしたら、そんなどこの馬の骨とも知れないやつのエゴだけで発信された情報なんて迷惑なだけなのである。

でも、フォロワー2桁みたいなアカウントで壁打ちのように、ボトルメールが誰かの元に流れ着くのを待つように発信し続けても、満たされない思いだけが蓄積していくわけだし、こういう見つかりたい願望を捨てられない人って、どうしたらいいんだろうね……

山崎ナオコーラ「正しい世の中」

可愛く愛嬌があって、経済力のある男の人と20代で結婚して子どもを産む、そんな女の人でないと世の中に席がないような感覚の描写に、わかる~と思いながら胸が痛かった。

 

「そして、これは愚痴だけど……。いくら仕事を頑張って、納税しても、今の日本では女性は子どもを産まないと社会的に機能していると思われないんだわ。会社にいても、街を歩いていても、責められているように感じてしまう。だから、三十五歳までに子どもを産めたらいいな、って思ってしまったの」

「あとね、認められたいっていうのは、評価のことじゃなくて、『生きていてもいいよ』『この社会にいていいよ』って、誰かから言われたいってことなの」
言っても伝わらないだろうな、と思いながら豆子はグラスに手を当てた。独身女性でも、きちんと会社勤めをしているのなら、社会に参加しているし、経済をまわしているはずで、それだけで十分に人生を祝福されるべきだ。豆子も、友人たちに対しては、そう思う。だが、自分のこととなると、そう思えなくなるのだ。

私は虫に負けた、と豆子は思った。虫はえらい。この広い世界に、小さな体で存在して、命も短いのに、相手を見つけて、繁殖する。よく出会えるな、本当にすごい。十一階のベランダまで上がってきて、セックスしたのだ。そして、この毛虫が生まれた。頑張れ毛虫。私は誰ともセックスできない。大きな体を持って、八十年もの寿命があるのに、繁殖しないで死ぬのだ。なぜ自分は繁殖できないのだろうか。ぶすだから、となんとなく自分を納得させているが、虫のようになりふり構わず生きたら、繁殖できるのではないか。本気でセックスしたかったら、道に出ていって、ホームレスの人に「自分とセックスしてください」と頭を下げるなり、インターネットで探しまわって、誰かれ構わず頼みまくるなりしたら、いつかは誰かにしてもらえるのではないだろうか。そして、それを繰り返したら、子を宿すことはできるだろう。それをしないということは、やはり本気では思っていないのだ。子孫を繁栄しようと努めない。生物として、自分は駄目だ。家さえあればいい、なんて自分のことだけを考えて生きている。老後は家族ではなく社会に支えてもらおうとたくらんでいる。この考えで、いいのだろうか。

 

豆子は、従来の「夫に支えられる妻」という花嫁像に違和感をおぼえ、自分が出資し、自立を宣言するというオリジナルの結婚式をやりたいと願う。伴侶に選んだ鯛造が、社会的地位や世間が求める男性性と縁薄い人物像であることもポイントである。しかし、世間は赤の他人の”個”を理解してくれはせず、結婚式は失敗に終わる。結婚式の段取りの過程で、鯛造の社会的スキルの低さが裏目に出て、プライベートのパートナーは人生を切り開くパートナーとしてふさわしいとは限らないということも知り、それならいろんな場面でそれに適したパートナーを見つければよいのだな、という答えを出す。

「だって、男の人だったら、『オレに任せて。主に稼ぎます。でも、にこにこしたり、気遣いしたりは、あまり得意ではありません』は、逆に格好いいイメージだよね?なんで、属性が女ってだけで、それがマイナスイメージに変わっちゃうんだろう。大学で勉強したのも、これから頑張って昇進して経済力を上げていくっていうのも、皆はむしろマイナスって捉えるってことだよね?にこにこしたり、優しそうに見せたりっていうのができなかったら、他のところでどれだけ頑張っても、あっという間にアウトな新婦になるわけだね」

豆子が色々と結婚にまつわる世間的規範に違和感を表明するたびに姉の花や妹の星にたしなめられるシーンをみると、「面倒くさい」側の人間であることは損だよなと改めて思うと同時に、でも、そこを考えたいんだよ、という思いも沸き起こってくる。自分の感覚に正直でいることって疲れる。世間は強い。

「うーん。納得いかないなあ。それって、『いわゆるお嬢さんの趣味』を求める世間への迎合じゃない。『仕事に活かしたいわけじゃなく、フランス文学に興味があったので留学経験があります』とか、『家のことをやる働き者の嫁になります。鯛造さんを支えます』とかっていうアピールと一緒じゃない。そうではなくて、『大黒柱になります。鯛造さんを食いっぱぐれさせません』というのを、私の魅力にしたいの」
豆子が言うと、
「自分の魅力を自分で決められるわけがないでしょ。他人が決めるのよ」
花は、びしりと指摘した。
「う……」
あまりに正論だったので、ぐっと豆子は詰まった。

「それにね、いくら豆子ちゃんが、『自分で式を作った』って思っていても、鯛造くんのご両親が式を出しているっていうイメージで捉えるゲストもいると思うよ。そりゃあ、豆子ちゃんの友だちの内の数人は理解してくれるかもしれない。でも、ほとんどの人が、そうは思わないんだよ。それは、いくら説明しても、いくら豆子ちゃんが挨拶しても、きっと伝わらない。だって、世間の中で『結婚式』っていうイメージは、型通りのものが強固にあるもの。それに、多くのゲストは、自分自身がどう見られるかが一番になっているのよ。(中略)だから、たとえ鯛造くんのご両親が豆子ちゃんのことを理解していて、自由にやらせてくれるのだとしても、もしも変わった結婚式に仕上がったら、ご親戚や友人たちから、『鯛造くんのご両親は変わっているなあ』と思われてしまう可能性があるのよ」

この先は、「ひとりでえらいわね」「税金を払ってえらいわね」「自分で家を建てるなんて、誰にも迷惑をかけないですごいわね」と言ってくれる人は、もう決して現れない。「だって、助けられているんでしょう?」あるいは、「え、助けられていないの?可哀想」の、どっちかしか言ってもらえないのだ。

 

最終的に豆子は、世間一般の「いい女」以外にも多様な人間像を肯定したい、という思いからとあるビジネスをはじめるのだが、そこに「部屋の中で虹を見つけられる人」、冒頭の4姉妹の会食シーンで小ばかにされていたニートの草子の魅力も肯定しているフレーズが入ってるのに、なんかじんときてしまった。

「実際、恋愛に絡ませて好感度を上げなくても、相手と良い関係は作れる。それに、『自分を他人に、こう見せたい』という理想が、もとから性的な由来を持つものではない人にとっては、『いい女風』のものはまったく必要なくて、『いい人間風』『立派な社会人風』が成功すれば、十分に満足感を得られる。決して負け惜しみじゃなく」

「もちろん、そのあとは、別のラインも作っていく。家事に自信がある人もいるだろうし、豪快さが魅力の人もいる。それから、小さな世界で満足できる人、たとえば、部屋の中で虹を見つけられる人……。いろいろな人の多様な魅力を全て肯定する。ひとつの物差しでなく、たくさんの物差しを作る」

 

 

 

 

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