ずログ(仮)

近況報告と発声練習

重力がいっさい関与せぬ運動によって降りていく

会社で昼休みに、時々保険会社の営業らしき女性がきて、チラシ配りをしていることがある。かわいらしい女の子がお願いします、と明るく配っていればもらってあげようかな、という気も起こるかもしれないが、正直に言ってしまうと、宗教勧誘にでも居そうな感じの女性が目をぎらつかせてチラシを受け渡そうとしてくるので、目を合わせないようにして足早に通り過ぎたくなってしまう。

私も学生時代に塾のチラシ配りをやったり、なんなら今でもGWになると某駅でチラシ配りの監督員をしてたりするので、こういうときもらってくれないとつらいし、ノルマもはけないんだろうな……そしてこういう行いが自分にも巡ってきたりするんだろうな……また徳が下がってしまった……と思うのだけど、手を伸ばすことができないのである。

 

 

去年、某町の仕事で住民ワークショップ的なことをしたあとに、駅前にあるちょっとした立ち飲み屋的な小さな居酒屋で関係者と飲んだことがあったのだが、その店の常連は個性的な人がまあまあいるらしく、その日は、同世代くらいのやたらテンションとコミュ力の高い女の子が存在感を放っていた。入店したとき、その町の取材に来たテレビ関係者がおり、あまりに打ち解けていたのでその人もテレビ局の人かと思ってしまったほどだった。

私は初対面の場ではめちゃめちゃ根暗のコミュ障になってしまう人なので、あー、大丈夫かな~と思っていたが、彼女は私たちのテーブルに加わった。その時、ワークショップに協力してもらった男子学生もいたのだが、彼女は初期段階で彼らにLINEの連絡先を聞いており、異人種だな~と思うのだった。

私も酒が入ってくるとそのうち彼女と色々話せるようになった。同い年とわかると彼女は「運命ですね!!LINE教えてもらってもいいですか??」と相変わらずの調子でグイグイ迫ってきた。彼女は、病院でカウンセラーみたいな仕事をしていると言った。彼女はもう一人の常連客に、自分が担当していた子がバイトに行けるようになったという話を嬉しそうにしていた。なんとなく見ないようにしていたが、彼女の左手にはおびただしい根性焼きの跡と刃物で切った傷跡がついていた。へ~、なんでその仕事しようと思ったんですか?と世間話にありがちな応答として聞くと、彼女は、「手見てもらったら分かると思うんですけど私も昔病んでて、自分よりも下の存在もいると思って安心したかったからです」と答えた。まあ、仕事に対するスタンスは人それぞれだし何も言うまい、と思い、あー、闇抱えてる人って嫌いじゃないですよ、的なことをわたしは答えた。

私はLINEのプロフィールを気まぐれに変えることがあるのだが、ある日泣き顔の顔文字だけにしてみたら、「なにかつらいことあったんですか?」と彼女からLINEがきた。「いや、ノリで変えてるだけなんで心配いらないですw」と返し、なんとなくやりとりが続いた。「彼氏いないって言ってましたよね??合コンいきませんか??」うーん。「ん~、合コンとか苦手なんで、遠慮しときます」と返す。しばらくして、「わたしも合コン行ったことなくて>< 不安だから誘ってみたんですけどw」うーん、、、?

そのまま、やり取りはフェードアウトした。しばらく経って、彼女からLINE桜くじ(だっけ?)が贈られてきたが、開封せずに終わった。もしかしたら彼女は、自分と繋がってくれる他者を求めて私の方へ手を伸ばしてきてくれたのかもと思うが、その手をとれなくてごめん、と思う。

 

 

先日、職場の人々と暑気払いと称して飲みに行った。上司(強い女性)は、いい感じに酔いが回ってくると、結婚なんてまだ先だと思っているかもしれないが人は必ず老いる、そして30超えた女は急にお呼びがかからなくなるんだから今のうちに行動しておけ、などといった、ありがたいアドバイスをよくしてくださる。その日も、〇〇(本名)が本当にしたい仕事はなんなんだ、〇〇(本名)が幸せを感じることはあるか、私の意見に同調するだけじゃなくて自分の意見もぶつけてこい、などとありがたい叱咤激励を受けていた。けっこう酔っぱらっていた私は何か一矢報いたいと思い、「<上司>さんはできない奴は自己責任で死ねという主義ですけど、わたしは、すべての人がどこかしらに居場所があるような世の中をつくりたいんです」と口走った。上司は「〇〇がそういう意見持ってるのは全然いいことだと思うよ。でも私は私でその意見を全力で潰しにかかるよ」と言ったうえで、「〇〇がそういうこと考えてるんだったら、たとえば調査の日雇いの人に、しんどくないですか?とか、こちらから声かけてあげたりして、ちゃんと気遣ってあげないとあかんよ」と話してくれたのだった。これまでも、そういう監督員をしたことは何回かあるけれど、人間としてひらいた状態で接するのってなかなか難しい。ただでさえいい歳して人見知りなのに。

 

 

最近、シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』を読み始めたんですけど、とても良い本なので、読んだらまた読書メーターとかに色々記録しようと思います

 

重力と恩寵 (岩波文庫)

重力と恩寵 (岩波文庫)

 

 

 

日記

今日は午前中の予定をすませたあとせっかくだしと思って「怖い絵」展を観に行ったんだけど、やはりキャッチ―な展覧会だけあってめちゃめちゃ混雑してて気持ちが萎えてしまい、流し見して図録だけ買って帰った。なんか兵庫県立美術館って人気のない展覧会で土曜の夜とかに行くとマジで自分しかいないんじゃないかレベルで人がいないので落差が激しい。

残酷!絶望!みたいなの集めましたよー!みたいな、一周回ってチャラいキュレーションだなあとは思ったのだけど(そんなに美術のこと詳しくないけど)、生きることに対する絶望とか、苦しみとか、そういう思いが行き場をなくして、でも生きる以外の逃げ道からどうにか目を逸らそうとした結果書いてる絵もあるなかで、そういう絵を「え~すごいけどよくわかんないね笑」みたいなことを言いながら”普通”の側の人がたくさん見ているというのはもやもやするけど面白い現象だなあと思った。中二病なコメント。

 

世の中の人は、多かれ少なかれ、自分が選んだ人に自分を差し出して深い関係性を築くことができてすごい。自分の好意は相手にとって不快をもたらすものであったり暴力になるから、そんなものは墓場に持っていくべきなのだ、そんなことを考えて無色透明、路傍の石ころを装って生きていく人間なんて頭のおかしい人間なんだ。

他者とつながるのってむずかしくないですかという、断片的な話

別に出会い系とかそういう話ではなく。

 

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少し前に、マンションのポストに、少し変わったチラシが入っていた。

ワードか何かで作ったと思われる手作り感の溢れるそのチラシには、「〇〇〇〇(名前)ってどんな人?」というタイトルの下に、女性の顔写真と、おそらく彼女の友人たちによる、「〇〇ちゃんはいつも明るくて、周りにも幸せをくれる子です★」「面白い、自分の世界を持ってる人!」というような推薦文が書かれていた。

 

一瞬ギョッとしたが、なんだかすぐにゴミ箱に捨てるには惜しい気がした私は、自室にそのチラシを持ち帰り、書いてあるQRコードから彼女のfacebookページにアクセスしてみた。

怪しい宗教か何かかとも思ったが、見たところ彼女は、一言で言い表すのは難しいが、個人でアトリエのようなお店のような活動拠点を開いており、そこに集まる仲間と何かを作ったり、おいしいものを食べたり、色々楽しいことをして過ごしているようだった。チラシについての記事もあった。そこには、「もっといろんな人に私のことを知ってもらうためのチラシを作りました!」と書かれていた。

あくまで想像だが、このチラシを配った人物は、自分なりに充実した人生を生きてみたいと試行錯誤した結果、その活動にたどり着いたのだろう。そういうのは嫌いじゃないよと思いながら、チラシを処分した。

 

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断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

最近読んだ本でこういうエピソードがあった。

 連れ合いが大学生のときに、大学前のにぎやかな学生街で、一人暮らしをしていた。(中略)ある夜おそく、コンビニで買い物をしていると、こちらをじっと見てくる、同じような大学生っぽい男子がいた。コンビニを出ると、後を付いてくる。学生がたくさん住む、人通りの多い街だったが、さすがに夜遅かったので、彼女はまっすぐ家に帰らずに、反対方向に歩いていった。その男子はずっと後を付いてくる。

 (中略)さんざん歩き回っても、どこまでも付いてくる。彼女はふりかえって、なにか用ですか、と聞いた。

 みんな実家に帰って、誰もいないので、さみしくて、友だちになりたいと思って。

 男子がもごもごとつぶやいた答えに彼女は激怒して、後付けて来たら、怖いに決まってるやろ、と叫んだ。すると男子は、口を尖らせて、友だちになりたかっただけやのに、と吐き捨てると、とつぜんくるりと振り返ってすたすたと歩いてどこかへ行ってしまった。

 あとには彼女だけが残された。

 

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私は働き始めるにあたり、生まれてから学生生活を過ごし、人間関係を築いてきた街から離れた。ショックといえばショックだけど、まあ心機一転できるかな、と思いつつ新生活を始めたが、基本的に利害関係でしかつながっていない、言ってしまえば「会社の役に立たないなら必要がない」人間関係しか周囲に無い環境で過ごすのは予想していたより居心地が悪いものだった。しかも、以前の記事でも触れた話だが、私は人に与える第一印象があまり良くない。実感では、半年か一年経って周囲に受け入れられるような気がする。しばらくは、特に面白みのない奴だと思われてるな、学生時代に私の変な部分を面白がってくれた人たちは貴重だったんだなと思いながら日々を過ごしていた。職場は職場、と割り切ろうとも思ったが、以前の自分はまぼろしで、本当は自分には何も無いんだな、と思った。

 

その後、オーケストラは若干嫌気がさしてきたけどなんかやりたいなと思ったので同世代の人間が集まる軽音サークルのような所に入らせてもらった。団体としてまだ始まったばかりということもあり随時メンバー募集をしているのだが、ネットで呼びかけていることもあり、「今まで引きこもっていたんですけど音楽を通じて人と通じ合いたいんです!!」というような不器用なタイプから、連絡がくることがあるそうだ。

 

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(たぶんこんな僻地のブログ見ないだろうけど、勝手に掲載ごめんなさい)

 

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オチが不明になってきましたけど、一人でいて生きる実感を得るのってなかなか難しいけれど、他者と出会うのも簡単じゃないよねという話でした。

 

とにかく何かを書かないとやばい

案の定放置してしまいました。

Twitterとブログって使ってる脳の部位が違うのか、Twitterで面白いこと書いてる人が意外とブログは放置気味になっているようなことが多いような気がします。(別にTwitterでもくだらないことしか言ってないけど…)

 

当初は書評ブログみたいにしようかとも思ってたけど、読書メーターの方に書いて満足する場合が多くてこっちは何を書いていこうかよくわからなくなってきています。

何か書きたいな~でも書くことないしな~でいつまでもぐるぐるしていると、全然手を動かさないのに頭の中で自分のアイデアを撫でまわしてるだけで何かできる気になっている最悪の人に近づく感じがする!ので、量を書けるようになりたい。

 

最近考えていることをとりあえず列挙(ちゃんと掘り下げて書きたいな、、、と思ってるけど、、うう)

・”社会に入れてない”人を見ると色んなことを考えてしまいつらい

・「この人と一緒に何かをできるかどうか」目線で人を見るとき、八方美人の回答をする奴はなんか地雷臭がする、それは自分の発言の責任を世間にゆだねているから

・自分の頭で考えて人生をやっていかねばならないのなら、早くそれを教えてほしかった。小中高の教育は先生が判定する○×(テストに限らない)で無意識に物事を考えるようになってしまう(私がバカ真面目だっただけか)

 

(やっぱ思いついたことをそのまんま垂れ流せるTwitterの方が好きです。。)

社会に入れない人(その2)

話にまとまりがなくなるので「その2」としたが、引き続いて『弱者の居場所がない社会』から考えたことを吐露したい。

注:若干プライベート色の強い話なので、この記事は一定期間公開後下げました

社会に入れない人

正直言って、私は一社会人として生きていくうえで、非常に不器用なタイプである。

社会向けにお行儀よくしようと自分の中で頑張っていると、傍から見ると何もとっかかりのない、わかりやすくいうと根暗なコミュ障になってしまうのである(まあ、普段からそういう人間なのはそうなんですけどね、、)。いつも明るくハキハキと、何気ない世間話をスムーズにこなし、周りを巻き込んで主体的に動く、初対面の人とも仲良くなる、そういう社会的に正しいことが、昔からどうしてもうまくこなせなかった。社会の場で初めて会った大人にはだいたい、「○○(本名)さんはマイペースな人だよね」という感想を貰ってきた。言うまでもない、「マイペース」は「社会不適合」を社会性フィルターに通した結果出てきた表現である。

 

愚痴はさておき、、そんな私が勇気づけられ、色々考えさせられ、久々に書きたいことがするする思い浮かんだ本があったので紹介します。

elk.bookmeter.com

従来いわれてきた貧困は単にお金の問題だけで、当面生きてはいけるだけの生活保護を与え、自分でお金を稼ぐための就労支援をすることが貧困対策だった。けど、そんな「死んではいないだけ」の生活をさせることは本当に支援といえるのか。人間が生きるうえで何よりも必要なのは心の豊かさである。そして、生きるうえでの心の豊かさを与えてくれるのは人とのつながり、言葉を変えて言えば「居場所」「承認」である。

居場所・承認はやはり、社会的にまともでないと、つまり労働をして自分でお金を稼げないと得ることは難しい。しかし、社会で働いてやっていくことにどうしても馴染めない、さまざまな生きづらさを抱えた人がいる。彼らは、「社会で生きていく価値の無い人」として切り捨てられても仕方ない人なのだろうか?

 

障害学においては、「障害」とされる心身の状況を抱えていることが障害なのではなく、そのような心身の状況にある人々が自由に活動できないような障壁を社会が内蔵していることこそが障害なのだという。そのように、「生きづらさ」がダメなのではなく、彼らも彼らの人生を良く生きることができる社会というのは、実現しないものなのだろうか。

 

著者は、ボランティア活動をしていた際に出会った路上生活者「かっちゃん」のエピソードを紹介する。彼は言ってしまえば素行が悪く、通行人にいきなり突っかかったり、その地域のNPOがやっていた、野宿者が自主的に集まって公園を掃除する活動に決まって現れては、1人寝そべって掃除中の仲間に野次をとばしたりしていた。だが、野宿者になったばかりの新参者を見て自分の小屋で寝かせたり弁当をあげたりするような面もあったためか、路上の仲間は彼がいくら協調性がなくても、なんとなく受け入れている雰囲気があったという(穿った見方をすれば捨て猫ヤンキー理論だろ、とも言えるかもしれないがそれはそれである)。つまり路上は社会から排除された彼にとって唯一の居場所だったのである。以下、引用を見た方が伝わるところが多いと思うので一部引用する。

彼が、コンビニやファーストフード店で、にこやかに「いらっしゃいませ」と言っているところは想像ができないし、スーツを着てパソコンに向かうようなこともしなかったであろう。

しかし、彼のよさや人間としての価値は、そのような物差しでしか測ることができないのであろうか。市場で求められる職業訓練を彼に求めることは、彼が彼であることを否定し、社会が考える「理想の労働者」によりマッチした、彼とは異なる人物であることを求めることである。かっちゃんは、労働市場においては自活できるだけの「評価」を得られなかったがゆえに、路上生活をしていた。でも、彼は腕のいい大工であったし、持ち前の器用さと力の強さがあった。

なぜ、彼は彼のままで社会に貢献することができないのであろう。いや、彼がたとえ、「労働者」として何の価値もなかったとしても、なぜ、彼は彼のままであってはいけないのだろう。なぜ、職業訓練をして、お行儀のよい社会人にならなくてはならないのであろう。

そんなの精神的な理想論じゃん、みんな社会でやっていくために我慢してるんだよ、社会に適合するために努力できないお前が悪いんじゃないの?というのも、確かにあまりにも正論である。私はそれに対して「ロジカルに」反論することはできない。そう言い切れるって逆にすごいな、そんなにお前は”普通”から転落しない自信があるのか、、と思う。それぐらいのメンタルの強さがあればどんなにか生きやすかったことだろう(そんな人になりたくないけど)。

 

この本の初めの方の章で、日本の貧困にまつわるデータを概説しているのだが、様々な品目を挙げて「最低限の生活」には何が必要だと思うか、という問いに対して、日本人は全般にわたり、「これが必需品である」と答えた率が低かったという。衝撃なのが、子供の必需品に対する回答である。誕生日のお祝いについて、イギリスでは93%が必需品と答えたのに対して、日本は35.8%だったという。

ちなみに日本でも、自分の子供に誕生日のお祝いをあげている割合は95%である。自分の子どもにはほぼ100%与えているものでも、日本に住むほかの子がそれを欠いていても「いたしかたない」と考えるのである。

著者の見解とは若干違うが、私はこの部分を読んで、そうか、日本人にとって心の豊かさは必需品ではなくて贅沢品なんだろうなあ、と思った。昨今言われているワークライフバランス問題とかもこの辺に端を発しているんだろうけれど。

外国人はきちんと自分が人間として生きる尊厳をきちんと権利として大事にする傾向にあるけど、日本でそれを口にすると身勝手だと思われるのはなぜなんだ?と思ったとき、鴻上尚史氏の「日本人にとっての神様は世間」という話が頭をよぎった。「村八分」の言葉に代表されるように、村落共同体社会で自分の幸せ・豊かさを求める者は排除されるべき存在だった。それに対して、特に一神教の世界では、自分の行いについては自分の内なる神に問いかければよく、自分と神との一対一の問題なので、周囲に遠慮する必要はない、ということである。*1

 

なんだか頭が発散してきたので私の言いたいことを列挙。

  • うまくやってけない側の人間でも自分の価値にちゃんと自信をもってしかるべきだし、むしろうまくやってける側の人しかうまくやってけない社会おかしくない?って伝えてくれる人がいて良かった。
  • でもそういう「社会的包摂」を実現できる術ってあるんだろうか。。
  • 日本人めんどくさい

 

*1:『孤独と不安のレッスン』に書いてあった内容。『「空気」と「世間」もちゃんと読まないとなあ

手の届かない存在に恋い焦がれる

そういうタイプに見えないのでよく驚かれるが、私はアイドルが好きだ。アイドルと対峙するファンたちの関係は絶望的なまでに非対称だ。自分のことなんて一生見ないであろう、きらびやかな世界にいるきらびやかな存在に恋い焦がれることは、ある意味、神に祈ることにも近い気がする。日頃どんなに生きる気力をもらっているかだとか、あなたがこの世にいてくれて本当に良かった、いつまでも応援しています、などそれぞれの熱意を込めたメッセージを送ることはできる。しかし、その返答が「ファン」というかたまりの一部ではない自分そのものに対して返ってくることはまずない。ライブに行けば「みんないつも応援ありがとう」と言ってくれるが、その言葉は「ファン」という総体に投げかけられたものだ。普通の感覚を持ち、自分が愛する者に愛される関係を願う人間だったらとても耐えられないかもしれないが、どうしようもなく、アイドルに生かされてしまう人間もいるのだ。
この関係って面白いなあ、これを題材になにか話が書けたりできないだろうか、なんて漠然と考えていたらまさにドンピシャの小説がすでにあって若干悔しかった。
 
 
30歳を過ぎ、6年間付き合っていたが正直あまり好きとも思えなかった彼氏と別れ、転職した直子は、転職先の年下の先輩・由佳に連れられ、生まれて初めてライブというものに行く。そこでロックバンド「ゴライアス」のボーカル・伶也に心を奪われた直子は手を尽くして伶也との接触に成功する。そして兄や知人が人生の順調なステップとして家庭を築いていくなか、直子は恋人・妻などではないよくわからない存在として伶也を支えることに人生を捧げるのである。
 
ドルヲタ的には「自分が認知されてるなら十分報われてるだろ!」と思う気持ちも無くはないのだが、まあそうしないと物語が展開しないので仕方ない。というかむしろ、めでたく認知されてしまったことが「普通」でない業の深い人生への扉になってしまっている気もする。
 
この小説は、人生における愛や幸せの成就とはいったい何事か、という答えの出ない問いを投げかけていると思う。人生における「幸せ」の成就は、多くの人にとっては結婚して子どもを持ち、家庭を築くことであろう。しかし、冷めきった主人公の家庭の姿が描かれ、他にも作中で結婚した人物が結局次々離婚しており、愛の成就の結果・幸せの象徴たる結婚は否定されている。
 
「直子おばちゃん、バイバイですよー。だいくんはこれから新しいおうちで、ばあばと一緒に住めますねえ」
 孫の大哉を抱いた母はそう言って、玄関先で直子を見送ったあと、すぐに家のなかに入ってしまった。父親は書斎に入ったきり出てこなかった。
 自分にとって家族とはなんだったのだろうか、という疑問が頭をよぎるが、寝食を与えてくれ、大学院まで出してくれた両親には感謝しかなかった。きっと自分は、母親が思い描いていたような娘ではなかったのだろう。
夫婦というのは一体なんだろうと、直子は思う。自分は結婚をしなかったし、これからもないだろう。子はかすがいというけれど、直子が両親にとってかすがいになったとはとうてい思えなかった。母の生きがいは、兄から孫の大哉に変わった。
葬儀のあと母は体調が悪いと言い、斎場には行かなかった。直子はもろくなった父の白い骨を拾いながら、急に泣けてきた。人の一生は、晩年で決まると言ったのは誰だっただろうか。父の八十一年の人生が、満足できるものだったかどうかはわからない。夫婦のことはわからない。親子のこともわからない。人の人生というのは、なんなのだろう。
 
しかしさらに地獄なのはここからである。直子は恋い焦がれる対象として、伶也に対しての欲望を持っているが、伶也と恋人関係になるわけではない。伶也に愛されることを夢想しながらも、まっすぐに自分が愛されることに対しては違和感を覚えているような、そんな資格は無いと捉えているように見受けられる。欲望は行き場を失い、屈折する。
結果的には、決して円満な最期とはいえないが、自分にとって大切な者に寄り添いながら人生を終え、死後も自分の死を悼んでくれる心の友人のような存在も複数得ている。ある意味ではこれも幸せの一形態といえるかもしれない。
 
アイドルを好きになる心理とは何か。作中でも、芸能人に対する人それぞれの向き合い方が示される。そもそも、一生出会うこともない芸能人に入れあげるなんてばかばかしいという人。憧れの芸能人と恋に落ちることを夢見たりするが、それはそれとして、自分の人生のステップを築いていく人。自分に振り向くことがない非日常的存在への狂信を突き詰めた先に何があるのかという思考実験のように読んだ1作だった。