ずログ(仮)

近況報告と発声練習

内省しかできることが無い

いわゆる真面目系クズあるあるだと思うのだが、性格診断の類をやると必ず内省とかそういうのが高く出るタイプである。

 

有名なのだとエゴグラムをやると、決まってAC(Adopted Childの略で簡単に言うと受動性の指標)が突出して高い。具体的にどういうことかは以下のページを見ると分かりやすいかも。

komyushou.com

あと以前、検索してたどり着いたエゴグラム診断をやってみたらこんなんが出た。「即座に不採用決定をするべきです。組織内において生活をする上で不可欠な要素の多くが欠如しています。」とのこと。死にたい。

vcap.vone.co.jp

あと、MBTIっていう診断(詳しくはググってください)だとINFP型というのになる。

“仲介者”型の性格 (INFP-A / INFP-T) | 16Personalities

自分は本当はこんな生き方であるべきじゃないんだみたいなことを延々と考えてるけど、外向きの論理的思考はできないタイプ。考えるのが苦手なのにインテリっぽい雰囲気のことが好きという手に負えない典型的真面目系クズ。そんな感じなので16類型中で社会に適合するのが最も難しく、平均年収が最も低いらしい。

 

どんな欠点も裏から見れば長所だともいえるわけで、こういう特性を持った人間でも「あなたは謙虚で感受性豊かで思いやりがあるタイプ」とか「持ち前のインスピレーションや内省する力を強みとして生かそう」みたいなことが一応長所として書いてある。適職を見ると、芸術・クリエイティブ系や、学者・研究者がいいですね!みたいなことを言われていたりする。でもそれってつまり、才能があれば自分の特性生かしてやっていけるけど、才能がないorスキルを伸ばすための努力ができない人は満足な社会生活諦めるか普通になる努力してねってことなのだな……とも思う。

 

社会人生活もあっという間で今年3年目になってしまったけど、まともな社会人というのが向いてないな……と常に思っている。大学院まで行って、演習とか研究とかいろいろ考えているフリをしてきたけれど、よくよく振り返ってみると周りの人に乗っかってただけで、自分で考えて何かをやり遂げたことってあったのか?と胸が痛くなることがよくある。ニートやフリーターになったらだめだという恐怖感で就職したけれど、考えることから逃げてきたツケが回ってきている感じがする。

今の生き方は本来的じゃなくて、生きがいを得たいという漠然とした思いがあり、恥ずかしいけれど心の奥底には、遠くの誰かに見つけてもらいたくて、透明になりたくないという思いがある。でも芸術的才能は特になく、文章も人よりはグダグダ色々書き散らせる感はあるけど突出したものはないし、絵とかデザインも興味はあっても手が動かないことを学生の時に思い知った。

どうにもならない無駄な内省ばかりして具体的行動に移せない自分が嫌であれこれ考えるけど結局手を動かせない。自分もいつか満足した人生を送れる日がくるかもみたいな漠然とした期待を抱いて、毎日現実への不満を垂れ流して一生を終えるのかもしれないと思って絶望する時がある。

 

っていうINFP的生きづらい思考パターンをやめたい

透明になりたくない

個の叫びとしての短歌

一昨年頃から短歌への漠然とした興味があり、最近ついに、初心者向け歌会体験版のようなものに参加させてもらった。

短歌に最初に興味をもったのは、Twitterで鈴掛真さんの歌を目にしたことがきっかけだったと思う。そのあと、短歌botのようなアカウントを色々フォローしたり、穂村弘さんのエッセイなどを読んで面白いなと思うようになった。とにかく、2016年は個としての私の輪郭を見失いかけていた時期で、何らかの表現手段を模索していた。ユリイカの短歌特集を買ったのもこの時期だった。

短歌といえば中学か高校だかの時に文集をつくるために無理やり詠まされたくらいしか縁がなく、なんか風流なことを詠むやつでしょ、としか認識していなかったのだが、それは少しもったいない認識だったと気づいた。 

はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)

はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)

 

この『はじめての短歌』は、 国語教育で触れる短歌のイメージを転換させてくれる良い入門書だと思う。この本では基本的に、例となる短歌と、その改悪例を示すことで、短歌における詩的価値とはいったい何なのか、ということを分かりやすく示している。

改悪例は基本的に、他者に共有されづらい交換不可能な個人的な感覚を、普遍的で共感されやすいものに言い換えている。たとえばこんな感じだ。

大仏の前で並んで写真撮るわたしたちってかわいい大きさ 平岡あみ

改悪例:大仏の前で並んで写真撮るわたしたちってとても小さい

一般的、普遍的、社会的な情報伝達としては改悪例の方がよいが、後者の方がその時に感じた感覚を読み手により生きた形で想起させる。この本では他にも、「コンタクトレンズを探して地面を這いつくばるのはOKだが、”蝶々の唇”なるものを探すヤバいやつはアウト」「昭和のおおらかな時代には必ず町で有名な変な人がいたが、今ではそのような、社会的にアウトな人は無かったことにされた」「何もトラブルが起きていない駅では駅員の肉声ではなく録音の声が聞こえる」など、社会に入れないものが排除されている例を示す一方で、「課長代理は必要だけど、夫代理がいては困る」など、実は人間は交換不可能な”私”を求めているということを示す。

「社会的に価値があるものがよい」というタテマエを生きているが、実は我々は、交換不可能な、一般的には受け入れられないようなものを求めているのではないか。また、それこそが、社会で希釈された個を取り戻すことなのではないか。この本は短歌の面白さを伝えるだけでなく、そのような問題提起をしている。

 

透明になりたくない

新年一冊目の読書としてこの本を読んだら数日心がざわついてしまった。

 

アンダーグラウンド (講談社文庫)

アンダーグラウンド (講談社文庫)

 

 当時の惨状を生々しく描き、またサリン事件によって重い後遺症を負ったり命を落としてしまった方とその家族の悲しみがダイレクトに突き刺さって来るため、読んでいてかなりつらいものがあった。読み進めるにあたり色々検索していると、この本に関して「村上春樹は他人のトラウマで相撲をとっている」という批判があったが、これは間違いなく書かれるべき本であったと私は思う。この本の意義は、証言集だけでなく、著者による解説「目じるしのない悪夢」にあるだろう。

「目じるしのない悪夢」で、著者は、この事件は狂気の集団が起こした例外的で無意味な犯罪として片づけられるものではなく、我々にとっても他人ごとではない要素をオウムは孕んでいる、と指摘する。この事件は、社会というシステムに適合できず、「いかにして生きるべきか」という問いに答えを出せなかった若者が、かりそめの「物語」を得る代償として自我を麻原に預け渡した結果起こったものなのである。そして、狂気と片付けられるような「物語」に対抗できるような物語を、「普通」の世界の側は提示できなかった。

 

この本を読んだあとはやはり「輪るピングドラム」が見たくなる(※この事件をモチーフにしている)。 

 『アンダーグラウンド』を読んだあとだと、一見すると加害者側に肩入れしているともとられかねない三兄弟と両親の描写に、よく作れたな……と思わずにいられなかったが、この作品でも、事件を起こす側を単純に「間違っている」「異常」で片づけられないということ、また、「子どもブロイラー」の描写に代表される「透明にされる」ことで生きている感覚を奪われる辛さが描かれている。

 

私自身、縁の薄い土地に来てから、透明になりたくない、という思いをずっと抱えている。一人で暮らすようになってから何度も救われている『孤独と不安のレッスン』には次のように書かれている。

つらくてたまらなくなったり、不安でいてもたってもいられなくなったりしたら、誰かに何かをあげることを考えましょう。

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

 

輪るピングドラム」では、分かち合い、大切な人に与える「運命の果実」としてリンゴが繰り返し描かれている。

自分は怠惰で回避的なところがあり、時々それがすごくつらい。つらい時には誰かに何かをあげること。あげられるものはなんなんだろうか。

 

 

 

重力がいっさい関与せぬ運動によって降りていく

会社で昼休みに、時々保険会社の営業らしき女性がきて、チラシ配りをしていることがある。かわいらしい女の子がお願いします、と明るく配っていればもらってあげようかな、という気も起こるかもしれないが、正直に言ってしまうと、宗教勧誘にでも居そうな感じの女性が目をぎらつかせてチラシを受け渡そうとしてくるので、目を合わせないようにして足早に通り過ぎたくなってしまう。

私も学生時代に塾のチラシ配りをやったり、なんなら今でもGWになると某駅でチラシ配りの監督員をしてたりするので、こういうときもらってくれないとつらいし、ノルマもはけないんだろうな……そしてこういう行いが自分にも巡ってきたりするんだろうな……また徳が下がってしまった……と思うのだけど、手を伸ばすことができないのである。

 

 

去年、某町の仕事で住民ワークショップ的なことをしたあとに、駅前にあるちょっとした立ち飲み屋的な小さな居酒屋で関係者と飲んだことがあったのだが、その店の常連は個性的な人がまあまあいるらしく、その日は、同世代くらいのやたらテンションとコミュ力の高い女の子が存在感を放っていた。入店したとき、その町の取材に来たテレビ関係者がおり、あまりに打ち解けていたのでその人もテレビ局の人かと思ってしまったほどだった。

私は初対面の場ではめちゃめちゃ根暗のコミュ障になってしまう人なので、あー、大丈夫かな~と思っていたが、彼女は私たちのテーブルに加わった。その時、ワークショップに協力してもらった男子学生もいたのだが、彼女は初期段階で彼らにLINEの連絡先を聞いており、異人種だな~と思うのだった。

私も酒が入ってくるとそのうち彼女と色々話せるようになった。同い年とわかると彼女は「運命ですね!!LINE教えてもらってもいいですか??」と相変わらずの調子でグイグイ迫ってきた。彼女は、病院でカウンセラーみたいな仕事をしていると言った。彼女はもう一人の常連客に、自分が担当していた子がバイトに行けるようになったという話を嬉しそうにしていた。なんとなく見ないようにしていたが、彼女の左手にはおびただしい根性焼きの跡と刃物で切った傷跡がついていた。へ~、なんでその仕事しようと思ったんですか?と世間話にありがちな応答として聞くと、彼女は、「手見てもらったら分かると思うんですけど私も昔病んでて、自分よりも下の存在もいると思って安心したかったからです」と答えた。まあ、仕事に対するスタンスは人それぞれだし何も言うまい、と思い、あー、闇抱えてる人って嫌いじゃないですよ、的なことをわたしは答えた。

私はLINEのプロフィールを気まぐれに変えることがあるのだが、ある日泣き顔の顔文字だけにしてみたら、「なにかつらいことあったんですか?」と彼女からLINEがきた。「いや、ノリで変えてるだけなんで心配いらないですw」と返し、なんとなくやりとりが続いた。「彼氏いないって言ってましたよね??合コンいきませんか??」うーん。「ん~、合コンとか苦手なんで、遠慮しときます」と返す。しばらくして、「わたしも合コン行ったことなくて>< 不安だから誘ってみたんですけどw」うーん、、、?

そのまま、やり取りはフェードアウトした。しばらく経って、彼女からLINE桜くじ(だっけ?)が贈られてきたが、開封せずに終わった。もしかしたら彼女は、自分と繋がってくれる他者を求めて私の方へ手を伸ばしてきてくれたのかもと思うが、その手をとれなくてごめん、と思う。

 

 

先日、職場の人々と暑気払いと称して飲みに行った。上司(強い女性)は、いい感じに酔いが回ってくると、結婚なんてまだ先だと思っているかもしれないが人は必ず老いる、そして30超えた女は急にお呼びがかからなくなるんだから今のうちに行動しておけ、などといった、ありがたいアドバイスをよくしてくださる。その日も、〇〇(本名)が本当にしたい仕事はなんなんだ、〇〇(本名)が幸せを感じることはあるか、私の意見に同調するだけじゃなくて自分の意見もぶつけてこい、などとありがたい叱咤激励を受けていた。けっこう酔っぱらっていた私は何か一矢報いたいと思い、「<上司>さんはできない奴は自己責任で死ねという主義ですけど、わたしは、すべての人がどこかしらに居場所があるような世の中をつくりたいんです」と口走った。上司は「〇〇がそういう意見持ってるのは全然いいことだと思うよ。でも私は私でその意見を全力で潰しにかかるよ」と言ったうえで、「〇〇がそういうこと考えてるんだったら、たとえば調査の日雇いの人に、しんどくないですか?とか、こちらから声かけてあげたりして、ちゃんと気遣ってあげないとあかんよ」と話してくれたのだった。これまでも、そういう監督員をしたことは何回かあるけれど、人間としてひらいた状態で接するのってなかなか難しい。ただでさえいい歳して人見知りなのに。

 

 

最近、シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』を読み始めたんですけど、とても良い本なので、読んだらまた読書メーターとかに色々記録しようと思います

 

重力と恩寵 (岩波文庫)

重力と恩寵 (岩波文庫)

 

 

 

日記

今日は午前中の予定をすませたあとせっかくだしと思って「怖い絵」展を観に行ったんだけど、やはりキャッチ―な展覧会だけあってめちゃめちゃ混雑してて気持ちが萎えてしまい、流し見して図録だけ買って帰った。なんか兵庫県立美術館って人気のない展覧会で土曜の夜とかに行くとマジで自分しかいないんじゃないかレベルで人がいないので落差が激しい。

残酷!絶望!みたいなの集めましたよー!みたいな、一周回ってチャラいキュレーションだなあとは思ったのだけど(そんなに美術のこと詳しくないけど)、生きることに対する絶望とか、苦しみとか、そういう思いが行き場をなくして、でも生きる以外の逃げ道からどうにか目を逸らそうとした結果書いてる絵もあるなかで、そういう絵を「え~すごいけどよくわかんないね笑」みたいなことを言いながら”普通”の側の人がたくさん見ているというのはもやもやするけど面白い現象だなあと思った。中二病なコメント。

 

世の中の人は、多かれ少なかれ、自分が選んだ人に自分を差し出して深い関係性を築くことができてすごい。自分の好意は相手にとって不快をもたらすものであったり暴力になるから、そんなものは墓場に持っていくべきなのだ、そんなことを考えて無色透明、路傍の石ころを装って生きていく人間なんて頭のおかしい人間なんだ。

他者とつながるのってむずかしくないですかという、断片的な話

別に出会い系とかそういう話ではなく。

 

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少し前に、マンションのポストに、少し変わったチラシが入っていた。

ワードか何かで作ったと思われる手作り感の溢れるそのチラシには、「〇〇〇〇(名前)ってどんな人?」というタイトルの下に、女性の顔写真と、おそらく彼女の友人たちによる、「〇〇ちゃんはいつも明るくて、周りにも幸せをくれる子です★」「面白い、自分の世界を持ってる人!」というような推薦文が書かれていた。

 

一瞬ギョッとしたが、なんだかすぐにゴミ箱に捨てるには惜しい気がした私は、自室にそのチラシを持ち帰り、書いてあるQRコードから彼女のfacebookページにアクセスしてみた。

怪しい宗教か何かかとも思ったが、見たところ彼女は、一言で言い表すのは難しいが、個人でアトリエのようなお店のような活動拠点を開いており、そこに集まる仲間と何かを作ったり、おいしいものを食べたり、色々楽しいことをして過ごしているようだった。チラシについての記事もあった。そこには、「もっといろんな人に私のことを知ってもらうためのチラシを作りました!」と書かれていた。

あくまで想像だが、このチラシを配った人物は、自分なりに充実した人生を生きてみたいと試行錯誤した結果、その活動にたどり着いたのだろう。そういうのは嫌いじゃないよと思いながら、チラシを処分した。

 

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断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

最近読んだ本でこういうエピソードがあった。

 連れ合いが大学生のときに、大学前のにぎやかな学生街で、一人暮らしをしていた。(中略)ある夜おそく、コンビニで買い物をしていると、こちらをじっと見てくる、同じような大学生っぽい男子がいた。コンビニを出ると、後を付いてくる。学生がたくさん住む、人通りの多い街だったが、さすがに夜遅かったので、彼女はまっすぐ家に帰らずに、反対方向に歩いていった。その男子はずっと後を付いてくる。

 (中略)さんざん歩き回っても、どこまでも付いてくる。彼女はふりかえって、なにか用ですか、と聞いた。

 みんな実家に帰って、誰もいないので、さみしくて、友だちになりたいと思って。

 男子がもごもごとつぶやいた答えに彼女は激怒して、後付けて来たら、怖いに決まってるやろ、と叫んだ。すると男子は、口を尖らせて、友だちになりたかっただけやのに、と吐き捨てると、とつぜんくるりと振り返ってすたすたと歩いてどこかへ行ってしまった。

 あとには彼女だけが残された。

 

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私は働き始めるにあたり、生まれてから学生生活を過ごし、人間関係を築いてきた街から離れた。ショックといえばショックだけど、まあ心機一転できるかな、と思いつつ新生活を始めたが、基本的に利害関係でしかつながっていない、言ってしまえば「会社の役に立たないなら必要がない」人間関係しか周囲に無い環境で過ごすのは予想していたより居心地が悪いものだった。しかも、以前の記事でも触れた話だが、私は人に与える第一印象があまり良くない。実感では、半年か一年経って周囲に受け入れられるような気がする。しばらくは、特に面白みのない奴だと思われてるな、学生時代に私の変な部分を面白がってくれた人たちは貴重だったんだなと思いながら日々を過ごしていた。職場は職場、と割り切ろうとも思ったが、以前の自分はまぼろしで、本当は自分には何も無いんだな、と思った。

 

その後、オーケストラは若干嫌気がさしてきたけどなんかやりたいなと思ったので同世代の人間が集まる軽音サークルのような所に入らせてもらった。団体としてまだ始まったばかりということもあり随時メンバー募集をしているのだが、ネットで呼びかけていることもあり、「今まで引きこもっていたんですけど音楽を通じて人と通じ合いたいんです!!」というような不器用なタイプから、連絡がくることがあるそうだ。

 

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(たぶんこんな僻地のブログ見ないだろうけど、勝手に掲載ごめんなさい)

 

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オチが不明になってきましたけど、一人でいて生きる実感を得るのってなかなか難しいけれど、他者と出会うのも簡単じゃないよねという話でした。

 

とにかく何かを書かないとやばい

案の定放置してしまいました。

Twitterとブログって使ってる脳の部位が違うのか、Twitterで面白いこと書いてる人が意外とブログは放置気味になっているようなことが多いような気がします。(別にTwitterでもくだらないことしか言ってないけど…)

 

当初は書評ブログみたいにしようかとも思ってたけど、読書メーターの方に書いて満足する場合が多くてこっちは何を書いていこうかよくわからなくなってきています。

何か書きたいな~でも書くことないしな~でいつまでもぐるぐるしていると、全然手を動かさないのに頭の中で自分のアイデアを撫でまわしてるだけで何かできる気になっている最悪の人に近づく感じがする!ので、量を書けるようになりたい。

 

最近考えていることをとりあえず列挙(ちゃんと掘り下げて書きたいな、、、と思ってるけど、、うう)

・”社会に入れてない”人を見ると色んなことを考えてしまいつらい

・「この人と一緒に何かをできるかどうか」目線で人を見るとき、八方美人の回答をする奴はなんか地雷臭がする、それは自分の発言の責任を世間にゆだねているから

・自分の頭で考えて人生をやっていかねばならないのなら、早くそれを教えてほしかった。小中高の教育は先生が判定する○×(テストに限らない)で無意識に物事を考えるようになってしまう(私がバカ真面目だっただけか)

 

(やっぱ思いついたことをそのまんま垂れ流せるTwitterの方が好きです。。)

社会に入れない人(その2)

話にまとまりがなくなるので「その2」としたが、引き続いて『弱者の居場所がない社会』から考えたことを吐露したい。

注:若干プライベート色の強い話なので、この記事は一定期間公開後下げました